俺の日記

人生にハンドル遊びを

日本人にとって幸福とはなんだろうか

 

 

 

 

 

 

 

人間の幸せ。

それは時代によってころころ変わる。

 

昔の人は、今の時代の人から見ればつまんねえ生活してるなと思うかもしれないが、

昔はそれでいて幸福に生活していたのだ。

もしくは現代人より幸福だったのかもしれない。

 

人間の幸福は環境や時代によって変わる。

しかしよく幸福とはわからない。

ベストセラーになっている、ホモサピエンス全史を書いたハラリ市は、これまでの人類の中で個人の幸福を求めた時代はなかったと言っている。

 

なぜなのか、それは

歴史は常に国のため、お金の為に人々は犠牲を払われてきたからだと思う。

 

これまで人々は個人の為の幸福を考える時間は少なかった。

現代に入り少しづつ個人の幸福を考える時間を得ることができた。

しかし急にできた時間に人々は持て余している。

 

日本人にとっての幸せはどのように変化してきたのか見ていき、これからの時代の個人の幸福を考えてみたい。

 

 

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日本の近現代に作られた思想。

 

戦争に負けてから新たな日本は作られた。

戦後の日本は農村からたくさんの人が都市への移動とともに展開してきた。

農村を離れ、都市へ仕事を求める人であふれた。

その農村の人が日本の基盤を作ってきた。

だが都市にあふれた農村から出てきた人は頼れる存在が身近にいなかった。

その頼れる存在をになってきたのが企業の役割だった。

 

それはひとつのイメージを日本の社会に定着させることになる。

そのひとつは企業の発展なしには豊かさも自由な暮らしも実現しないというイメージである。

このイメージが、経済発展と企業の発展をなによりも大事なものと考える精神の習慣を作り出した。

 

企業なしには自分は幸せにはなれない、企業ありきの幸せという考えがここに生まれた。

この思想が大きな力を発揮して成長できたのが60年代という時代であった。

 

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60年代の日本。

 

近代とはなんぞやと思われる方もいるだろう、

近代の特徴には国民の形成というのが根本にある。

国民とはなんだろうか。日本人とはなんなのか。

 

それはイメージである。

これといった答えはなく、ただなんとなくなイメージしかないのである。

 

この国民の形成をめぐる動きが、近代という時代を作りだす出発点だったのではないかと考えている。

なぜならそれは国民という個人の形成であり国民という「人々」の発生だったからである。

ひとまとめにされ、数量化された個人が「人々」として登場してくる時代が、ここから築かれはじめたのである。

 

この国民というイメージを作る活動が近代を動き出す源になっているのだ。

例えば、戦争、本、新聞、テレビ、cm、メディアの力が大きく影響している。

そしてイメージに覆われながら国民が熱狂し、幸福を感じれていた時代は60年代までだった。

 

皮肉なことに、日本は60年代に最大限に国力を拡大し、まさにそのことゆえに、70年代にはいると国家として華麗に動く余地を失うことになった。
そして、そのことの最大の意味は、国家が国民にとって面白い存在ではなくなり、日々の生活に刺激をあたえ、個人の人生を励ましてくれる劇的な存在ではなくなった。

 

 

60年代に日本はなにが起こっていたのか。

60年は高度経済成長期に当たる。

経済も大きく成長しながら、

カラーテレビ、冷蔵庫、洗濯機の3種の神器が普及し、東京オリンピック、新幹線開通、ビートルズ来日、学生運動

このように国民が熱狂する出来事が起こっていた。

国民は日々成長する国を眺め、新しく起きる出来事に心躍らされていた。

そこには個人の幸福なんて考えなくてもいい。日々生活していれば楽しいことが勝手に起きる、そんな熱狂の時代が日本の60年代だった。

 

よきにつけあしきにつけ、

日本人は自分の人生上の問題を国民共通の事件として受け止め、

国家的に普遍的な現象として理解する習慣を身につけたのである。

 

日本人の根底にはこのような国民の考えが存在するのだ。

日本に起きる事が自分事であり、それがすべてだった。

 

 

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日本がおもしろい存在ではなくなった 

 

熱狂の60年代を経て、70年代に入ると日本は国民にとっておもしろい存在ではなくなった。

そこから日本人の幸福感の迷走が始まったのである。

 

周囲におもしろいものがあり、個人の人生も支えてもらった国という存在が力を失った。

そこから自分とはなんだろうという考えに人々は襲われ、不安感が覆っていた。

 

結局、明らかになるのは、誰もが気づかっているのは世間という顔のない他人であり、流行という無署名の没人格的な呼びかけだ、ということである

 

周囲に踊らされた時代から、熱狂がさめた後に残されたのは空虚である。

気づいてしまったのだ、結局世間なんてなんでもないと。

しかしだ、個人の幸せなんて考えたこともなかったのに、そんなの無理だと。

だから世間、周囲にしがみつく生き方をした方がマシだと。

まだ日本の根本には国がどうにかしてくれる。そんな考えが残っている。

世間に踊らされ、流行におどらさられる。流される人生。

 

 

 個人とはなんなのだろうか?

 

これからの個人の時代の幸福を考える上で大切になるのが他者との関わりである。

個人はあるかないかなど色々これまで人々は考えてきたが、

結局個人というのは他者との関わりの中でしかないんだと思う。

永い人生の中誰でも一度は自分とはなにか考える。
しかし考えても考えても答えは出てこない。
哲学者の岩田靖夫は次のように言っている。

 

人生の意味、すなわち、生きる喜びとは、他者との交わりであるということだ。「生きる」とは「他者とかかわっている」ということなのである。
他者を愛すること、他者から愛されること、他者を助けること、他者から助けられること、それが人間の喜びである。

 

他者はよくわからない存在だ。

自分では完全に認識することは難しい。

自分という存在がよくわからないのに、他人のことを理解することなどできるはずもない。

だからこそなんだ。

人に感謝される、喜ばれる、楽しませる。

全くよくわからないものから反応を受けることこれに大きな喜びを受けるのが人間なのである。

認識できないからこそ面白い。

また次のようにも言っています。

 

知らないものをしるということは冒険であり、未知の世界の拡大ではある。

しかし、どれほど認識された世界が拡大しても、存在者は意識によって把握されたものである。
すでに、鋳造された世界が拡大しても、存在者は意識によって把握されたものである。
だが、他者は私がどうしても認識できない者として、

すなわち、私の意識のうちに取り込まれえないものとして現れる。

なぜなら、もしも私の意識のうちに取り込まれたならば、それは私によって同化され消化されたものとして、他者ではありえないからである。

 

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まとめ

自分にとって幸せとはなにかそのようなことを考えるきりがない、禅問答に入り込んでしまう。

たぶん人間なんていうのはもっとシンプルな動物である。

人間は環境の動物だと誰かは言ったが、大きく人間は環境に影響される。

だから個人なんていう考えはないのかもしれない。

これからの時代は個人がいろんなことを選び取れることができる時代だと思う。

だからこそしっかり自分の幸せはなにか考えなければならない。

 

 

 

 

引用

新幸福論 内山 節

極限の事態と人間の生の意味 岩田 靖夫

柔らかい個人主義の誕生 山崎 正和