世界三大宗教から学ぶ 2
なぜキリスト教が世界に広まったのか?
これを書いてみます。
キリスト教は人の「心」や「内面」の所で人を引き付ける魅力があった。
それを別の言葉で言うと、「神の息吹」のような「神の光」が入ってくるということ。
キリスト教ではこの神的なものが入り込んでくるはたらきを「聖霊」と呼んでいます。
神は超越的で、人は神を感じることも知ることもできないのに、人の中に神的なものが入り込んでくる。人はそれを手がかりに神や神の国に近づき上昇していける。
その過程で重要な役割を果たすのが、「聖霊」によって注入される「神への愛」です。
その「愛」こそが、人間に潜在する神的なものの可能性を最大限に高め、神や神の国への接近と上昇を可能にするのです。「罪びと」にも「聖霊」が訪れて、神的なものが吹きこまれるかもしれない、などという発想は、細かく厳しい戒律を守って救済を待っているユダヤ教やイスラム教からは普通出てこないでしょう。
人と神の距離感がキリスト教は近いということですね。
崇拝する神が近くに感じられしかもその神の教えが分かる。その教えを持っていれば
天国にいけるといことです。
ギリシャ哲学の中でもピタゴラスやプラトンの哲学がキリスト教に影響を与えたと考えられています。
彼らは感覚で捉えられる現実世界を超越した「イデア」の世界にこそ真理があると考え
「イデア」というのは例えば犬とか、猫など思い浮かべてくださいと言われたら、
どんな動物かわかりますよね?
それって人間みんな共通してわかることですよね。
でもなぜ猫とか犬とか想像することができるのか。
それは「イデア」が猫とか犬とかにはあって「イデア」があるからその存在を知ることができる。
「イデア」は感覚では捉えることができない。しかし、確実に存在する。それを探りあてる能力が、なぜだか人間には備わっている。そして、「イデア」に恋い焦がれる「愛」に導かれて、それを発見し、それに向けて自らを高め接近していくことができる
この考えに神を当てはめるとキリスト教の考えと似た思想になる。
そしてキリスト教はこのギリシャ哲学に「神」と人間に神的なものを注入する「聖霊」を加えた。
この考えは17世紀の哲学者デカルトにまで脈々と受け継がれている。
デカルトは「疑う、ゆえにわれあれ」ということを言った。
そしてそれは疑いをもつことは不完全な自分を知っているからで、なんで不完全な自分を知ってんの?それは完全なものを知っているからだ。ということを言った。
デカルトはこう結論づけた
「神なる本性によって、私のうちに注入されたのであるとしか考えられない」
それによって神は存在すると言った。
人間は神的なものを注入されているがゆえに、神に接近していける。
神から与えられた人間の可能性を最大限に引き出して、神に向かって上昇していかなければならない。
こういう考え方がヨーロッパを覆っている。
だからキリスト教を学ぶということは世界の人の考えを知ることになるわけです。